公益財団法人 軽金属奨学会 設立60年史
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14水系の豊富な水力発電を利用した日米合弁のアルミニウム製錬会社を設立しようという壮大な計画を進めていた。しかしこの計画は、第一次世界大戦の終結とともにアルミ需要が急落したことにより、アルコア側が投資に躊躇を見せはじめ、いつの聞にか立ち消えになっていた。その代わりにアルコアは、海外事業展開の司令塔として分離設立したアルキャンとの提携を高峰博士に持ちかけ、同社製のアルミニウム販売権を与えた。 高峰博士は東京に販売代理店として亜細亜アルミナム株式会社を設立し、アルミ製品の販売ビジネスを大々的に展開しようと考えた。支配人には、小山田の義兄(姉の夫)である田口一太が専務取締役として送り込まれ、後に東洋アルミニウム会長となる為永清治も社員として採用された。 高峰博士はさらに、総本山であるアルコアでアルミビジネスの神髄を学んだ優秀な人材を育てることが、これからの日本のアルミ業界発展には不可欠だと考えた。そこで白羽の矢が立てられたのが小山田であった。小山田はアルコアに出向して、ごく少数の選抜新入社員だけが受けられる、幹部候補生としての実習訓練を約半年の間受けた。工場での現場作業を振り出しにさまざまな実地訓練を受け、最後は販売担当重役パウエル(後のアルキャン社長)の指導のもと、アルミ粉やアルミペイント顔料の販売政策を叩き込まれた。 この時に築いた人脈やビジネスマンとしての能力評価が、後年東洋アルミニウムのトップとなった時に、いかにものをいったかは想像に難くない。日本法人トップとして、アルキャン役員陣からの信頼は厚く、「Oyamadaのサインがあれば、どんな稟議書も承認された」というほど、小山田の名前は神通力を持っていたという。 アルコアで、アルミニウム人としての帝王学を学んだ小山田は、1927年(昭和2年)に亜細亜アルミナムに入社し、アルミペイント顔料やアルミら見える日盛りの大阪の街を呆然と眺めた。「今が8月、来年1月までといえば、もう半年もないじゃないか」 真夏の陽炎に似た不安と焦燥が一気に押し寄せてきた。■小山田裕吉の生い立ち 軽金属奨学会の生みの親である小山田裕吉とは、どのような人物であったのか──。ここで少し、その生い立ちと人となりについて、ご紹介しておきたい。 小山田裕吉は1899年(明治32年)、神奈川県横須賀市の旧家に生まれた。小山田の叔父には、渡米して実業家として活躍する古谷竹之助という人物がいた。古谷は、タカジアスターゼの発明によりアメリカで巨万の富と名声を築いた高峰譲吉博士と親交を結び、三共(旧三共製薬)創業の手伝いをするなど、スケールの大きなビジネスマンであった。早稲田大学を卒業した小山田は、この叔父の感化を受け23歳で渡米しコロンビア大学院に入学。ここでビジネスコースの銀行学を3年間勉強して卒業し、高峰コーポレーションに入社した。 これより以前、高峰博士は、世界最大のアルミニウム企業であるアメリカ・アルミナム株式会社(通称アルコア)と組んで、黒部川留学時代の小山田裕吉

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