16■財団設立活動がスタート 軽金属奨学会の生みの親、小山田裕吉については、まだまだ書ききれないほどの話が残されているのだが、本書の主旨は、軽金属奨学会設立60年の史録にあるので、このあたりで話を本筋に戻していきたい。 1954年(昭和29年)8月、海外出張から戻った小山田に、総務課長代理の上谷が財団法人設立を命じられた時点にまで、再び時計の針を戻すことにする──。◇ 小山田社長から、財団設立の特命を受けた上谷は、考えあぐねていた。製造業のことならお手のものだが、財団法人の設立など経験したこともない。どこから着手していいのかもわからないのである。しかし、来年1月には設立をと期限を切られた以上、とにかく走りながら考えるしかない。焦りばかりが募るなか、上谷はふと、東洋アルミニウムの顧問弁護士である竹田準二郎のことを思いだした。 かつて竹田弁護士と何かのおりに雑談をしていた時、「昔、大学関係の財団設立のお手伝いをして、ずいぶん苦労したんだよ」という話をしていたはずだ。上谷はさっそく小山田の了解を得て、竹田弁護士を訪ねることにした。■竹田弁護士の厚情 関西弁護士界の重鎮であった竹田は、多忙なスケジユールにもかかわらず、心よく上谷の面会に応じてくれた。上谷がことのいきさつを一通り話し終えるまで、竹田はただじっと聞き入っていた。説明を聞き終えるや竹田は、設立する財団の詳細は何も問わずに、「そういう趣旨の財団法人なら、文部省の管轄ですよ。大阪の場合、大阪府庁の教育委員会になりますね」と答えた。さらに竹田は「善は急げといいますから、上谷さんさえ良ければ、右するアルミ地金の扱いにも信念を持ってあたり、地金市況が急落したおり、同業他社が見向きもしない時期に底値で地金を買いそろえ、市況回復時にライバル社に大いに差をつけたという逸話も残されている。 また戦後、アルミ建材隆盛の頃も、同業者がこぞって建材生産に走るのを横目に、断固として安易な道を選ばず、アルミ箔一筋に工場を整備し、ついに最高品質のアルミ箔を製造する国内のトップメーカーへと育てあげている。今でこそアルミ箔製品は、食品や日用品などの容器・包装用として、スーパーやコンビニなど私たちの暮らしの中にあふれているが、その源流をたどれば、小山田たち東洋アルミニウム初期の人々が、製品の品質を改良し市場開拓に取り組んだ証しなのである。 このように小山田は、ことアルミニウムに関しては求道者のように厳しい姿勢を貫いたが、何かに偏るのではなく、広く公正に世界を俯瞰できる、国際感覚にすぐれた人物だった。東洋アルミニウムを高収益会社に育てた経営面だけでなく、アルミニウム業界全体の発展に功績を残したのも、そうした広い見識があってのことだ。 終戦と同時に進路を失った軽金属圧延工業会を旧に復するため、1947年(昭和22年)に結成された軽金属ロール会の理事に就任、1949年(同24年)に理事長に選任され、12年の長きにわたり圧延工業の拡大に尽力を続けた。その間、業界発展の礎を築くために、自社の資産を投じて軽金属奨学会を設立し、現代へとその意志を引き継いでいる。こうした業界への多大な尽力により1958年(昭和33年)、アルミニウム工業界で最初に藍綬褒章を授与されている。 不惜身命でアルミニウム産業の発展に人生を捧げた男、それが小山田裕吉という人物である。軽金属奨学会は、そんな男のDNAを遺伝子として受け継いだ財団法人として活動を続けてきた。
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