公益財団法人 軽金属奨学会 設立60年史
22/102

20る上谷の姿を見ていると、彼が文部省と上司との板挟みになって、つらい立場に立たされていることは十分に推察できた。だからといって、省としての方針を変えるわけにもいかない。来年1月に設立するためのタイムリミットは、刻々と近づいていた。決断をするなら今しかないと北野は思った。「このままではいたずらに時間だけが過ぎていき、小山田社長の悲願である来年1月の設立がかなわなくなります。どうでしょう上谷さん、ぎりぎりの妥協案として、設立趣意書に経営学の助成という一文を入れるということでなんとか話を収めることはできませんか」 文部省にすれば、定款の事業目的から「経営学の助成」という一文を削除できれば文句はない。その代わり、設立趣意書に一言加えておけば、Bilngerの意向もくみとったことになる。これはまさに、ぎりぎりの着地点ということがいえる。上谷はさっそくこの折衷案を大阪に持ち帰って、最後の調整をしてみることを約束して文部省を後にした。 北野事務官の予想通り、Bilngerはようやく首を縦にふってくれた。「いいでしょう、ミスタ・カミヤ。あなたもつらい立場でしょうから、私はもうこれ以上、口をはさみません。あとは一刻も早く、財団が設立できるように協力しましょう」。 アルミニウムという商品を手に、世界中のマーケットを相手にしてきた国際ビジネスマンのBilngerにとって、日本の軽金属産業がこれから発展していくためには、経営学を修めた有為の人ムリミットぎりぎりまでもつれていった。■ぎりぎりの折衷案で着地 東京への出張というと、現在では飛行機や新幹線で快適にスピード移動ができるが、昭和30年代は一苦労であった。夜行列車で上京して、また夜また夜行列車で帰ってくるというようなハードな行程の行列車で帰ってくるというようなハードな行程の繰り返しで、寝台車に乗れるような身分ではない上谷のような会社員の場合、固いボックス席で一晩中揺られて行くのである。現代人ならすぐに音を上げるような環境も、心身ともにくたくたに疲れていた上谷にとっては天国のようなもので、出発するや泥のように熟睡して早朝に目が覚めるという繰り返しであった。設立認可が佳境に入った秋以降は、そんな強行出張を、週に2度も重ねることがあった。 何度ものBilngerとの調整が、ついに不調に終わった上谷にとって、北野事務官との折衝は気が重いものであった。ほほ完成の域に近づいた定款を点検しながら北野はつぶやいた。「やはり経営学の助成は、そのままなんですね…」 上谷は、かたくななBilngerの姿勢を伝えた。北野はため息まじりに、「文部省の会議では、経営学の助成という事業目的が削除されなければ、設立認可はまかりならんというムードになっていますよ」と告げた。 北野は上司から、「設立時の基本財産がわずか300万円で、軽金属に関する学術の研究や教育を助成する事業すら危ぶまれるのに、経営学の助成にまで事業範囲を広げるのは非常識ではないか」と叱責を受けたことを上谷に説明した。文部省としては当然の指導であり、北野自身もその通りだと思っていた。予想外だったのは、上谷の上司が文部省の指導を受け入れないという事実であった。 申し訳なさそうに肩を落としてい

元のページ  ../index.html#22

このブックを見る