22受話器の向こうから聞こえる芝原の声は、明るく弾んでいた。「今、文部省の北野さんからお電話がありました。財団設立の認可が下りたとのことです。上谷さん、よかったですね」 上谷はこの時のうれしさを、生涯忘れることはないだろうと思った。8月から半年間も文部省通いを続けて「ようやく報われた」という思いと同時に、「やれやれ、やっと肩の荷が下りた」という安堵感でいっぱいだった。 受話器を置いたあと上谷は、北野事務官に対して改めて心から感謝をしていた。スピード認可が実現した本当の功労者はあの人だ。まるで我が事のように奔走してくれた北野さんの助力があったからこそ、こうして財団が予定通り設立できたのだ。 その後、上谷は文部省を訪れるたびに北野事務官を訪ねるようになった。北野が栄転で部署を変えても交誼は続き、定年退官時には記念品も贈った。その後も長く北野が他界するまで、上谷との文通は続いた。 財団創設期の関係者の多くは鬼籍に入ったが、北野事務官も財団設立時の陰の功労者として、記録されるべき人物である。本書を通じて、改めて深謝の意を表したい。◇ 1955年(昭和30年)1月26日、安藤正純文部大臣の認可により、財団法人軽金属奨学会が誕生した。同月31日、軽金属奨学会の活動はついにスタートした。通りに揃えることができた。あとは、文部省幹部の承認印を集めてまわるだけである。しかし、北野事務官が最も懸念したように、この時すでにタイムリミットである11月を過ぎて12月に入っていた。この年の第21回国会は、12月10日から始まり、翌昭和30年1月24日までとなっていた。文部省幹部はすでに、各種の質疑に答弁するため、国会詰めの体制に入っている。 北野事務官は「ここまできたのですから、私にとっても当初の目標通り、来年1月には財団を設立させたい気持ちは同じです。なんとか必要な承認印を揃えてきますから、あとは私に任せてください」と請け合ってくれた。ここまで親身になって面倒をみてくれる北野事務官に、上谷は心の底から感謝をした。後で知ったことだが、実際にこの時の北野事務官の奔走は、たいへんな苦労であったらしい。文部省幹部をつかまえるために連日夜討ち朝駆けという状況で、まさに身を粉にして判子集めをしてくれていた。■財団の設立認可がおりた日 やるべきことを終えた上谷としては、あとは北野事務官の奮闘に感謝しつつ、ただ待つだけしかなかった。慌ただしい年末が過ぎ、昭和30年の新年を迎えたが、初春を寿ぐ気分ではなかった。小山田に指示された1月が、ついにやってきてしまったのだ。北野事務官からの連絡がないまま、じりじりと時間は過ぎていった。 1月25日の午後、東洋アルミニウムの東京事務所長だった芝原甫から上谷宛に電話が入った。
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