公益財団法人 軽金属奨学会 設立60年史
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25第2章 財団の草創期 「巨星墜つ」。アルミニウム産業界はもちろん、軽金属学会にも衝撃が走った。国は生前の小山田の功績に鑑み、死去当日に勲四等旭日小綬章を追贈した。 主を失った軽金属奨学会は、理事長の急逝に大きなショックを受けた。しかし、その空白期間から立ち直ると、小山田の薫陶を直に受けた人たちがその遺志を引き継ぎ、以前にも増して精力的に財団活動を続けた。小山田急逝の翌年には、財団創設者の功績を後世に顕彰することを目的に、記念賞の制定を企画した。 事務局スタッフや東洋アルミニウム役員らが奔走して、軽金属学会に記念賞の制定と主宰を依頼したところ、生前の小山田の功績に心から感謝をする学会では、それに快諾するかたちで記念賞の制定に応えた。現在、軽金属を素材にしたものづくりの分野で、最も権威のある賞として知られている「小山田記念賞」の始まりである。料金は80円(同8.5倍)、銭湯入浴料が15円(同29倍)という物価状況であった。少なめに見積もって、当時から20倍程度のインフレーションがあったと想定しても、設立当時の財源は、7億4千万円程度の価値はしっかりあったということになる。設立当初、「我が国有数の財源規模を持つ財団法人」という評価は、あながち大げさな話とはいえない事実だったのである。■巨星墜つ 小山田理事長の急逝 長年業界団体の理事長として業界発展のために尽力し、軽金属奨学会の活動でも社会貢献を惜しまない小山田社長に対して、1958年(昭和33年)藍綬褒章が授与された。アルミ業界としては初の褒章であった。 軽金属奨学会の活動は年を追うごとに充実し、順風満帆の歩みを見せていた。小山田は、財団の定例役員会で理事や評議員と再会するのを何よりの楽しみとし、豊富な話題と会話で場を盛り上げる名理事長ぶりを発揮していた。 財団設立から10年を迎えた1965年(昭和40年)11月27日、軽金属奨学会評議員会を終えて帰宅した小山田理事長は、夕食時に脳溢血を起こし突然倒れた。親族をはじめ多くの人々の願いもむなしく、約2週間の昏睡状態の末、小山田はそのまま帰らぬ人となった。享年66歳であった。小山田記念賞 盾晩年の小山田裕吉

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