公益財団法人 軽金属奨学会 設立60年史
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27第3章 財団の成長飛躍期用途はいよいよ広がりを見せている。 設立以来、財団の資産総額は増加を続け、それにともない事業費も順次拡大を続けていた。「出版刊行事業」はこの年から始まっている。教育研究資金・研究補助金の交付を受けた研究者の研究論文をまとめた英文アブストラクト集の刊行や、グループ研究・課題研究の報告書の刊行のほか、軽金属学会の50周年記念刊行物への助成なども行っている。 同年12月26日、財団の設立に貢献した東洋アルミニウム取締役会長為永清治が逝去した。 1963年(昭和38年)、財団に事務局長職が新たに設定され、芝原甫が初代事務局長に選任された。 1964年(昭和39年)4月、東洋アルミニウムが世界初のアルミ箔総合研究所を開設した。 日本の高度経済成長はますます盛んになり、昭和30年代後半にはマイカー時代に突入。この年、戦後日本の復興の象徴ともいえる東京オリンピックが開催され、東海道新幹線や名神高速道路が開通した。国内で建設ラッシュが続く中、アルミニウム需要も毎年二ケタ成長を続け、新たな市場へと広がりを見せていった。■小山田の逝去と記念賞の制定 1965年(昭和40年)、軽金属研究会を改組し、現在の軽金属学会が発足した。同年12月10日、 1958年(昭和33年)、東洋アルミニウムがクッキングホイルとアルミ箔容器を発売した。今や日本中のキッチンに普及している商品だが、国産化されたのは昭和30年代のことである。 同年、軽金属奨学会の小山田理事長が、藍綬褒章を受章した。 1959年(昭和34年)、皇太子がご成婚し、ミッチーブームに湧いたこの年、アルミサッシの需要が増え始めている。記録的な爪痕を残した伊勢湾台風による家屋の被害が、サッシや窓ガラスの売り上げを瞬間風速的に急増させたといわれている。■高度経済成長とともに事業費も増加 1961年(昭和36年)、高度経済成長とともに、アルミニウム産業の躍進は続いていた。財団設立7年目のこの年、軽金属奨学会の事業費は年間1,000万円の大台を突破している。新規事業として、「研究試料の提供」がスタート。できるだけ研究者の要望に沿った研究試料を提供することを基本とした。 1962年(昭和37年)、軽金属ロール会が「軽金属圧延工業会」に改称した。1949年(昭和24年)から同会の理事長として、戦後の復興に尽くしてきた小山田裕吉は、前年10月に理事長を退任して理事となっている。 この年、アルミバントラックが登場し、国産旅客機YS11が初飛行を行うなど、アルミニウムの為永清治(東洋アルミニウム取締役会長)前列左小山田裕吉(軽金属奨学会初代理事長)前列右川島浪夫(軽金属奨学会二代目理事長)後列右

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