28員に選任された。 1971年(昭和46年)、アサヒビールがオールアルミ缶ビールを発売、本格的なアルミ缶時代が到来した。■第3代理事長に根本義を選任 1972年(昭和47年)、アルミ新地金、圧延品ともに、年間生産が100万トンの大台に乗った。この年、アルミ製バットが高校野球で公認されている。 軽金属奨学会は、川島浪夫理事長の後任として、根本義を3代目理事長に選任した。 1973年(昭和48年)、大阪大学教授の山根壽己氏が理事に選任された。 アルミ製品年間総需要は200万トンを超えたが、この年10月に、第一次オイルショックが起き、翌年にはアルミ地金価格が急騰した。 中近東産油国(OPEC)の減産をきっかけとして発生した石油危機は、日本経済に大きな打撃を与えた。トイレットペーパーにまで波及した狂乱物価や、「省エネ」が時代の流行語となり、アルミ精錬業でもエネルギーコスト上昇の直撃を受けて国際競争力が著しく低下していった。業界をあげての対応策として、電力コストが安い海外の地金輸入に切り替えるなど、我が国のアルミ地金の供給は、海外依存型へと変化していく。 1975年(昭和50年)、東京大学教授の堀内良氏が理事に選任された。財団設立21年目のこの年、財団の年間事業費は2,500万円を突破した。 日本軽金属がアルキャンと相互技術協力契約を締結した。 1976年(昭和51年)、清涼飲料にアルミ缶が本格使用され始める。 財団が保有する基本財産である東洋アルミニウム株式は、無償・有償増資が繰り返された結果、570万株まで増加した。小山田理事長が逝去。常務取締役の川島浪夫が東洋アルミニウム代表取締役社長に就任、同時に軽金属奨学会2代目理事長となった。また、新事務局長として上谷琢之が選任された。 小山田の急逝により、財団は大きなショックを受けたが、創設者の遺志を引き継ぎ、事業を継承すべく、関係者は気持ちを新たにした。 1966年(昭和41年)、軽金属学会は軽金属奨学会創設者である故小山田裕吉の功績を顕彰するため、小山田記念賞を制定した。同賞がきっかけとなり毎年、軽金属学会が主催、軽金属奨学会が賞金や副賞を援助する「軽金属研究者の表彰」事業がスタートすることになった。 以来、小山田記念賞をはじめ、軽金属論文賞、同新人賞、軽金属功績賞、軽金属躍進賞、軽金属奨励賞、軽金属女性未来賞、軽金属功労賞の受賞者など、優秀な軽金属研究者に副賞を贈呈している。 この年、日本の人口は1億人を突破。前年下期から始まったいざなぎ景気に乗って、日本経済は好調な歩みを続けていた。 1967年(昭和42年)、東京大学教授の五弓勇雄氏が理事に選任された。 1968年(昭和43年)、財団設立14年目のこの年、年間事業費は2,000万円を突破した。 国内初の超高層ビル霞ヶ関ビルをはじめとし、多くの超高層建築がデビューし、アルミカーテンウォールが広まっていった。また自動車、トラックなどの車両分野で、軽量頑丈なアルミニウムが普及していった。 1969年(昭和44年)、乗用車にアルミ製ラジエータが初めて搭載され、アルミ製品の年間総需要が100万トンを超えた。 1970年(昭和45年)、大阪万国博覧会が開催され、日本の経済成長ぶりが、国内外に誇示された。 同年より、大阪大学教授の美馬源次郎氏が評議
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