31第3章 財団の成長飛躍期運営に尽力いただいた東京大学教授麻田宏氏が、評議員を退任。代わって、東京大学教授の菅野幹宏氏が理事に選任された。また、事務局長として森岡敏夫が選任された。 この年、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件が起きている。 1996年(平成8年)、財団の2代目理事長である川島浪夫が逝去。故小山田裕吉の薫陶を受け、財団設立時より41年にわたり、軽金属奨学会を支えてきた功労者のひとりである。 同年、日本軽金属が東洋アルミニウムの筆頭株主になる。アルミ製品の年間総需要は400万トンを超えた。 1997年(平成9年)、この年から「軽金属フォーラム」がスタートする。軽金属材料の開発と利用および社会との係わりに関する広範な課題の中から、先端的で重要な、あるいは異分野にまたがる課題などをとりあげて実施するフォーラムとして企画された。将来への展望を含めて多面的・総合的に討議し、集約された意見・提言を取りまとめ、その成果が軽金属材料に携わる技術者・研究者の糧として将来に役立つ事を期待し、課題提案を含む優れた実施企画に対して資金を交付している。10回実施をしたが、平成18年「統合的先端研究」スタートと共に終了した。 同年、財団設立時より軽金属奨学会を支え続けた元事務局長の上谷琢之が評議員を退任した。財団の設立準備に始まり、事務局長、理事、評議員を歴任した通算42年にわたる活動は、まさに財団の陰の功労者と呼ぶにふさわしい献身であった。 1998年(平成10年)、初めて私立大学からの理事として日本大学教授の時末光氏が理事に、事務局長に藤井善三が選任された。 1999年(平成11年)、社団法人日本アルミニウム連盟の定款を変更し、社団法人日本アルミニウム協会に名称を変更するとともに、社団法人軽金能化のニーズが高まり、アルミニウムの採用が大幅に増加した。 その一方では、国内精錬業の事業撤退にともない、アルミ地金の安定的な確保や、関税引き下げによる国際競争力の確保などが、業界の大きな課題となって浮上してきた。■バブル崩壊で財団受難の時代に 1991年(平成3年)、東京大学教授の増子曻氏が理事に選任された。 リサイクル法が施行されたこの年、バブル経済が崩壊し、平成不況へと突入した。 また、地球環境問題が叫ばれ始め、世界的な最重要課題として、温暖化防止や省資源などの社会的要請が高まっていった。エコロジーが時代のキーワードとなり、生活者レベルでも地球にやさしいライフスタイルが定着していった。 とりわけアルミニウムは、飲料容器としてはリサイクルしやすい特長を持ち、自動車、鉄道車両などの軽量化にも役立ち、省エネの観点から「地球環境にやさしい金属」としてその重要性が再認識された。 1992年(平成4年)、専任の事務局長として河本光一郎が選任された。■第5代理事長に小南一郎を選任 1994年(平成6年)、バブル崩壊による景気低迷で配当収入および金利収入が減少。収支バランスと事業内容の精査を重視し、年間事業費をピーク時の2分の1程度である4,500万円前後に設定し直した。 同年11月、小南一郎が第5代理事長に選任された。また大阪大学から富山大学教授に転出された佐治重興氏が理事に選任された。 1995年(平成7年)、この年をもって、財団設立時より40年間の長きにわたり、軽金属奨学会の
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