75高による内外価格差の拡大、さらに決定的な要因として、二度にわたる石油危機によって電力価格が高騰したことがあげられる。その製錬業の終焉について、少し詳しく触れてみたい。 最も大きなきっかけは石油危機によるエネルギー価格の高騰であるが、最初の要因は貿易の自由化があげられる。輸入地金に対する関税が引き下げられていくにつれ、地金の輸入が増えていった。特に日米貿易摩擦が激しくなり、日本に対する市場開放要求の高まりで、1985年(昭和60年)にアルコアが「日本のアルミニウム関税引き下げの必要性と正当性」という「アルコア・アピール」を発表し、日米貿易協議の過程で、地金の関税は1987年(昭和62年)から5%となり、1988年(昭和63年)からは1%にまで引き下げられた。このアルミ貿易交渉の決着が、石油危機による電力価格の高騰で瀕死の状態にあった製錬4社にとどめを刺すこととなった。そして、関税は最終的にはウルグライ・ラウンドにより1995年(平成7年)4月からゼロとなった。 二番目の要因として、為替の問題があげられる。ニクソンショック(1971年(昭和46年))により変動制への移行により円高が進展し、1985年(昭和60年)のプラザ合意でさらなる円高に突入し、地金の輸入量が増えていった。このようにして、国産地金が国際競争力を失っていく中で二度にわたる石油危機がボディブローのように効き、1982年(昭和57年)にはアルミ地金の内外価格差はトン18万円にまで広がっていった。 80年代に入り、次々と製錬所が操業を停止して行き、蒲原を除けば三菱化学の坂出と三井アルミニウムの三池が1987年(昭和62年)最後に火を落とした。操業年数で見ると、蒲原を除けば昭和電工の大町が一番長くて48年、一番短いのが操業開始の最も遅かった住友軽金属の坂田で5年強であった。日本軽金属の蒲原が最後まで残ったのは、やはり自家水力発電所を、しかも自社工場の設備として所有していたことにつきる。工場の設備にしていたことにより、戦時体制のもとで国策会社として発足した日本発送電にも住友化学や昭和電工のように設備を吸収されることはなかったそうだ。それでも国内の電力価格の上昇と設備の老朽化で74年という長い歴史に幕を降ろさざるを得なかった。1.2 圧延業の現状 現在のアルミニウム製品(板・押出の圧延品、鍛造品、鋳造品、ダイキャスト等)の需要は約400万トンで、2006年(平成18年)に記録した約450万トンを下回る水準で低迷している。これは、国内人口の減少、高齢化の進展など様々な要因が考えられる。約400万トンの内訳としては、板及び押出の圧延品が約200万トン、そして鋳造やダイキャストが約140万トンとなっている。 板についてもう少し詳しく見てみると、1971年(昭和46年)にビールのアルミ缶が登場して以来、特に80年代後半にアサヒビールのスーパードライが登場してから缶材の出荷が大きく伸びた。 2004年(平成16年)には猛暑により東京で観測史上最高気温39.5℃を記録し、缶材の出荷量も過去最高の444千トンにも到達した。しかしながら、最近は若者のアルコール離れが激しく、ビールの出荷アルミ新地金関税とアルミ新地金生産量・輸入量の推移
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